古本屋で束で買った本を片手に抱えたまま地下鉄の階段を駆け降りている。店員が挟んでくれたレシートだけが、この本が私のものだと証明する。けれども、私の署名が入っている訳でもなし、不確実な証明だ。
買った本を鞄に入れるのが面倒くさいだけなのだ。もっと言えば、背負ったリュックを下ろすのが面倒くさいし、既に仕事の荷物(決して道具ではない)でいっぱいの鞄を整理するのが面倒くさいし、いっぱいの荷物の中(おそらく底)からエコバッグを取り出すのが面倒くさい。だから、本は手に持ったまま、きっとこのまま家まで帰る。
その姿が第三者から見たときにどう見えるか。ここがパリかロンドンかブルックリンで、私が知的な現地人なら格好いい。日本人の読書人が多かれ少なかれ憧れる感じ。でも、そんな風に見える可能性を祈っている私はダサい。見る人が見れば、私も格好いいのかもしれない。けれど、私が格好良いと思われたい、せめて私のスタイルとして感心してほしい相手がダサいと思うことは請け合いで、その人たちからしてみれば私が何をしたってダサいのだが、そう想像して勝手に傷ついている事が何よりダサいことも私は知ってしまっている。こういう時、北海道弁の用法を使って、知ささっている、と言えるなら使っていきたいが、私には正誤がわからない。
スマートに生きたい。そう願うことがすでにスマートでないことを保証するし、ダサいのだが、自分が願うスマートさの中に在れていないことを知っているので願わずにいられない。
自己を客観視する事が甚だ難しい。離れるだけ離れてみようとしたところで、自分の肩を抱けるくらいの遠さまでしか離れられない。見たくもない毛穴がばっちり見えて、羞恥感情に溺れてしまう。
最近、今までやったことのない仕事を任されるようになった。現職どころか人生の中でもほとんどやったことのないこと。なぜなら苦手と踏んでいる分野だからだ。
仕事現場に向かいながら、スマートに仕事をこなす自分を想像する。成功者は多く成功のイメトレをしているという。成功者ではない私はなおのこと取り組むべきだ。けれど、イメトレはちっともトレーニングにならず、私は現場でスマートさのカケラもなく汗をかき、熱った顔で幼い説明に終始する。
面白がってくれる人がいる。一生懸命と捉えて、その努力に見える様を買ってくれる人がいる。けれども、真はただただ、上手にできない、それだけである。
スマートに在りたい。
このあまりに幼い願望を抱えて、私はいつまで大人になろうとするのだろう。もう、そんな事がバレたら恥ずかしいくらいの大人年齢なのに。
チャーミングになりたい、と友人が言う。あるイベントの登壇者が、チャーミングであったのだと言う。
友人がその登壇者に感じたチャーミングな点というのは、見る人が見れば幻滅する点とも言えないこともない仕草だった。その登壇者が、その仕草を意識的にしたのか無意識だったのかはわからない。芝居にも携わる人らしいから、芝居だったかもしれない。でも、そのさりげなさは、飾り気の無さは、本物だったらしい。
イベントの登壇者なのだから、芝居をするしないに関わらず、人に見られる機会は多いはずだ。そういう人の振る舞いは、素だろうと演じてようと見られていることは前提なのだから、見た人がどう取るかはあまり計算していないのかしらと考える。
それが「他人にどう思われても良い」という潔さであって、その潔さをチャーミングと、好ましく感じたんじゃないだろうか。
自分の在り方など、自分が決めて認めていればそれで良いのだと思うけれど、他者と共に社会で生きている中で、自分が在りたいように在る事を他者が認めていてくれていると自分が認められる事が一番安心するように思う。
こういうことを考えている時が、一番他者と繋がって生きているんだなということを実感する。