器の話 20歳の頃思っていたこと

ぼんやり

自分自身でさえついていけないほどの、自意識と若さに満ち満ちていた20歳の頃。自分を慰めるために書いていた器の話。

胸の内に少しづつ、雫が滴り落ちてゆく。

こうして混ざり合ってゆくことが成長するということなのかもしれない。

長く願った夢が思った通りに叶わないと知って、さっさと「生きていく道はない」と見切りをつけいくことが残された肢だとしたけれど、結局は自ら死に行く技術も度量も無く、生きながら死んでいる日々を送った。

どうせわたしなんか、所詮この程度。

覗き込んだ胸の内は虚しく音が響くばかりで、ますます自分という器の空っぽさに嫌気が差す。

何もしない日々というのは、封をされて奥にしまわれた器のように、本人にとっては昼も夜もそもそも時間というものが無く、ただそこにあるだけ、というものである。

しかし、周りから見る人々にとっては、得体のしれない器というのは恐ろしいものであるようで「ただあるだけ」という理屈は通用せず、呪いであったり宝であったり、何かしらの価値を求められてしまう。

求められることを煩わしく思い、やめさせるためには、自ら「わたしはこれこれこういう器だ」と名乗らなくてはならない。実際の茶器にも箱書というものがある。

「わたしはこういう器だ」と名乗るには自分の器をよく知らねばならない。そのためには、閉じた蓋を開けねばならない。しかし、蓋を開けるのは大変心苦しく辛いことである。その器が虚である事を知っているからだ。

蓋をした状態で外から眺める分には、器としてそれなりに見えるかもしれない。けれど、器というのは飾り物になるほど完成された見目麗しさでないかぎり、ものを入れるのがその役割である。なあなあの見てくれで、しかも蓋があかず入れ物として機能しないような器ではただの場所取りで邪魔なだけだ。

意を決し、蓋を開け、空の器の虚しさを味わう。これが自分と向き合うという事なのか。

空の器と向き合う事は寒々しく、全裸で人前に立つようなはずかしさがある。とにかくなんとかしようと性急に器をみたそうとするがさっぱり何をいれていいのかわからない。手当り次第詰めてみようとしても、入り切らなかったり小さすぎたり、ちょうど良くはいるものが無い。そうこうしているうちに、やっぱり蓋をして陰にしまわれているのがいいんじゃないかとまた閉じこもろうとするが、今一度蓋を開けてよくよく見ると底の方に僅かばかり光るものが見えて、それがなんなのかわからないままに愛おしく思える。蓋をすると、この愛おしいものを見る事ができなくなる。この身を割く葛藤を越えて、また入れるものを探し出すのである。

こういった葛藤を繰り返すと本当に少しずつだが中が増えて行く。覗いて見ると、はて最初はあるかないか、辛うじてあるのが分かる程度だった光るものが輝きをましている。これは面白い、と思えればしめたもので、その頃には蓋を閉めようなんて気は殆どないのである。

入れるほどに輝きは僅かずつ増して行く。その面白さに気を取られ、次々に中へいれてゆくとふと気がついた時、そこにあった光は姿を消していた。一体どこへ!

慌てて探そうにも底にまで手が届かない。なんだ、本当はちっとも器の中に今まで得て来たものは残っていなかったのかと愕然とする。

再び、空の器が出来上がってしまった。これからどうする。また蓋を閉めて、もう二度と明るみに出ないようにするか。けれど確かに、見たのだ。器の底に、輝くものを。

この葛藤はあまりに深く大きなものだった。蓋を閉めるどころか、器そのものにも背を向け、考える事を拒んだ。

もうここから離れ、ずっと遠いところへ旅立ってしまおうか。そんな思いが心をよぎる。山は連なり、海は果てなく、雲は空の彼方へ遠ざかる。自分たった一人が、こんなところに取り残されてしまった。太陽は西へ去り、月はまだ東から来ず、星さえ現れない。空は暗さを増すばかりで、視界が狭まって行く。

もうダメだろう。何も残らなかった。最期に、もう一度だけ、器を見ておこう。幾度もの葛藤を乗り越えて守って来た器。

そうして、またずっと深い奥まで覗いて見ると、光っている。また、奥から光が漏れている。

驚いた。突然朝日がさしたように、世界が明るくなってゆく。

光は消えていなかった。ただ、自分の乱暴さについて来れなかっただけなのだ。光は次々いれられるものの多さに埋れながら、けれど屈する事無く直向きに入れられたものを取り込んで行った。光の輝きはまだ、前と変わらないほどだったけれど、前よりずっと強い芯を持っていた。

それから、光は新しく入れられたものをどんどん取り入れ以前とは比べられない早さで大きくなった。しかしそれは、光だけの強さだけでは無く、入れるものを丁寧に選ぶ事を知った自分の強さの賜物でもあった。

やがて器は満たされる。

満たしていたのは、今までいれて来たすべてものでは無く、それらを取り込んで大きく育った、もともと器の底にみえていた光であった。

たくさんと混ざり合った光は美しく輝く。その美しさは、器は絶妙なバランスで収まっている。

もう、この器の存在について疑いを持ち、恐ろしいなどということは無いだろう。

そして、この器の価値について誰が問うだろう。問われたとして、何を恐れる事があるだろうか。

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