ずっと考えている

ぼんやり

多分、書くことは大して好きじゃない。

子供の頃から、人が話しているのを聞いているのは好きだった。ラジオだとか、テレビの対談番組とか。誰かと誰かがかいわ、言葉のやりとりしているのを、側で聞いているのが好きなのだ。

自分で自分の話をするのは好きじゃない。頑張って話すから、多分いつもぎこちない。接客業は一定のセリフを回すことで回せるから、話すのが好きではなくてもこなせる仕事だ。

最近、このブログに頻繁に投稿をしているのは自己開示の練習をしなければと思ったからだ。私の父の凄くておかしなところに、核心をつく事を自然に言って忘れてしまう、という点がある。何にも笑えないつまらんギャグは死ぬまで覚えているくせに、人の、子の心に刺さる言葉はサラッと言って忘れるのだ。私が感心する事を言ったから安牌だったけれど、下手し毒親ムーブだ。

「コミュニケーション能力は高いのに、自己開示力が低い」

そう言われたとき、私は霧が一部晴れた気がした。鏡を見るように自分と向き合っているつもりでも、そのガラスはやたら曇っている。拭って取れる曇りなら良いけれど、抽象概念を拭う方法は知らない。こうして他者の言葉がクリーナーの役割を果たしてくれるのか。本を読むっていうのはそういう事なのかもしれない。

そして私はずっと考えている。

これまで書き連ねているように、黙って、じっくりというよりはじっとり、考えている。

考えていることは、消えていかない。入れ替わり立ち替わり温泉源のように湧いている。一旦ピリオドを迎えたと思ったトピックも、新しい知識や視座を得ると復活してくる。いっそゾンビである。

あまりに考えていることが溜まると許容を超えるのでパニックになる。外付けハードへのバックアップが必要である。それが私にとって書くことであって、このブログだ。

近ごろ、私が面白さを感じている発信者達が「個人の日記」に注目している。多勢交流を好んでいるかどうかは知らないけれど、ひとに面白さを見出す人々だからか、個人の背景がわかる日記やエッセイを好んで読むようだ。

彼らが自分語りの面白さや重要性を語ることが、私の自己開示力アップトレーニングを密やかに後押しする。決して彼らと私が交わることがなくても、私のメディアを介した一方的な接近によってエンパワメントされている。

誰にも届かない事を前提に、それでもデジタルで公になる場所で自分語りをする。自分の話は面白くないだろう事を自認し、面と向かって誰かに聞いてくれと請うことができない自分語りを、いつかは誰かに聞いてもらえるんじゃないかという腰の引けた自己顕示欲の現れがここだ。

アウトプットではなくバックアップ。他者に読まれる事を前提としているのではなく、自分のためのアーカイブ。しかしそうなると、読める文章にする意義を途端に疑ってしまう。

そこのところへ鞭打つためのブログだ。オフラインなメモへの書き込みじゃなくて、きちんと文章として読めるものにする。

喋ることも書くことも大して好きじゃない。けれども、ならばせめて書いて出さねば、また自分の考えに窒息するようなことになってしまうから。

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