人生を無駄にしないために 新潮文庫 小津夜景「いつかたこぶねになる日」

以下、筆者の妄想である

新潮文庫 小津夜景「いつかたこぶねになる日」を読んでいる。ここで紹介されるような身近なテーマの漢詩を10代のうちに習えたら、より楽しく学べただろうという点において、概ね著者に同意する。

漢詩に限らず、学校教育で学ぶ詩歌はテーマが大きすぎるのだ。将来だとか、世界だとか、平和だとか、愛だとか。さっきの休み時間、自分の発言に友達の表情が一瞬曇った気がしたとか、昨日も食べたのに今日もドーナツが食べたい、クリーム大福でも良いとか、そういうテーマのものが実はゴロゴロあるのに、学びの場にふさわしい高尚で無難で誰にも正しさも適解もわかならいテーマのものばかりが与えられて、結果出来上がる「ポエム(笑」と嘲笑することを現実的でカッコイイと勘違いした元・子どもたち、否、永遠の子ども(笑)たち。

人生でたった数度の機会を乗り越えるために、これでもかと学習を詰め込まれる。まるでフォアグラのように、脂肪的知で膨れ上がった脳みそが、まともなことを考えられるだろうか。

勉強ができる人間が増えるたびに、文化とモラルを知らない人間が増えたことを嘆いている気がする。学校教育は、学習と文化を両立できないだろうか。

文化は、日常に根付くもので、マクロはミクロの延長にある。日常を細やかに見つめる視線を知力の向上を持って支えることで、ゆくゆく広きを見渡すだけの視座の高さを得られるのではないか。手元の、足元の、自身の、隣人の、ことを考える前に世界や社会のことを考えることばかり重視していては、失われる人間をはじめとした生命の数がただの数字に置き換えられてしまうこの毎日は必然であるとしか言いようがない。

私自身も例外ではない。だから本を読み、話を聞く。育ち直しという時間の無駄を生きていると思う。事故の中に文化の枯渇を感じて嘆き焦ることが年々増えている。

けれども、どれだけ意識しようとも、本を読むことは日常になったとしても、望むように文化が日常になるのは難しい。文化自体がある場所は、個人ではなく社会だからだ。社会的経験の個人的経験としての継承なのか、個人的経験の集合による社会的経験の形成なのかは鶏卵の話だが、円環の話でもある。

文化は共有されなければ残らない。世代を問わなくて良い。集合、共同体としてその中での共有でいい。学校という場所は、それに適している。だから、学校での学びには、大きなテーマより身近で小さなテーマを優先したらいい。

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